関ヶ原合戦の後、徳川家康によって築城された名古屋城を中心に城下町が形成され、産業や文化など様々な分野で名古屋は発展してきました。
名古屋城の初代藩主は徳川義直公、将軍家康の九男です。尾張徳川家は徳川御三家の筆頭格で六十二万石の大大名となりました。明治維新後、尾張徳川家第19代当主義親は昭和6年に財団法人 徳川黎明会を設立、4年後の昭和10年には徳川美術館を建造し、尾張徳川家の宝物の公開を始めました。徳川美術館は、日本で4番目に古い私設美術館です。
徳川美術館館長・尾張徳川家第22代当主の徳川義崇氏に、お話をうかがうことができました。
1961年東京生まれ。1966年学習院幼稚園に入園以降、小中高大と学習院に在籍。1979年高校の授業で初めてコンピュータに触れ、大学時代もコンピュータの世界に傾倒。1987年学習院大学経済学部経済学科卒業。学生時代にアルバイトをしていたコンピュータ関連会社に入社。2005年徳川美術館館長に就任、翌2006年には財団法人 徳川黎明会会長に就任する。長年培ったコンピュータの知識・技術は、徳川美術館の新しい展開構築に活かされている。
ITの会社に10年ほどお勤めだったとのことですが、今の仕事でその経験が活かせたことはありますか。また徳川美術館は、美術や歴史への関心が薄れているといわれる若者たちに、その深い魅力を広めていくためにはどのようなことをお考えでしょうか。(中京大学附属中京高等学校2年/柴田和琳)
IT業界にいたことが役に立っていることは、もちろんありますね。美術館で働いている学芸員の得意分野は美術と歴史で、あまりコンピュータとかITというのは馴染みがありません。そこで私がIT業界の中で得た知識などを使って、職場のIT化をしました。たとえば、徳川美術館は名古屋にあって徳川黎明会の本部は東京にありますので、本部と美術館の間をネットワークで繋ぎました。皆の働く環境を順番に便利にしていったのです。国宝の『源氏物語絵巻』のデジタル退色復元も、コンピュータでの知識が役に立っていると思います。
徳川美術館の魅力をどのように広めるか…戦略的なことで言えばフェイスブックとかツイッターといったSNSでの発信ですね。そういうところで若い人向けの書き方も工夫してPRしようと考えています。そうして少しづつ裾野を広げていければいいなと思います。
徳川美術館の貴重な所蔵品はどうやって集めたのでしょうか。1万点余りもの所蔵品の中で自慢の一品は何ですか。徳川美術館が他の美術館とは違う特質も教えてください。(名古屋大学教育学部附属高等学校2年/溝口瑛士)
収蔵品の殆どは江戸時代から尾張徳川家にあったもの。江戸時代には10万点くらいの品があったようです。それが明治維新で多くのものが尾張徳川家の手を離れてしまいました。そこから先は個人で管理しており、昭和10年に徳川美術館ができて以降は美術館で管理することになったのです。所蔵品の多くは買ったりして集めたものではなく、尾張徳川家で実際に使っていたもの、いわゆる大名道具です。大名が持っていた美術品を今日に伝えるのではなく、大名が使っていた道具がそのまま今日まで遺っているということが大事。消耗品の類いまでちゃんと遺っているというのは、他では見られない特徴だと思います。
徳川美術館の自慢の一品というのはありません。世間で有名なものなら国宝の『源氏物語絵巻』や『初音の調度』でしょう。『刀』も沢山所蔵しています。今までなら刀剣と言えば年配の男性しか興味を示さなかったのですが、少し前にネットゲーム「刀剣乱舞」があって、若い人や女性たちが興味を持ってくれるようになりました。色々なことがきっかけになるわけですね。自慢の一品はこれ、というふうに押し付けると他のものに目がいかなくなるでしょ。パリのルーブル美術館って『モナリザの微笑み』を見ればそれでいい…ではつまらないじゃないですか。
尾張徳川家から将軍が出なかったのは何故でしょうか。出ていたら名古屋はどう変わったと思われますか。また尾張徳川家二十二代当主として、
役割などはありますか。(名古屋大学教育学部附属中学校3年/稲垣智華)
尾張徳川家から将軍が出なかったのは、私はただ単にタイミングの問題だと考えています。将軍の跡取りが必要な時に、たまたま尾張には適合する人がいなかったということだと思います。仮に尾張から将軍が出ていたとしても、それが尾張の栄枯盛衰には関係があったとは思えません。将軍を輩出した水戸や紀州を見ても明らかです。歴史の中で仮説というのはいろいろあります。関ヶ原合戦で家康は亡くなっていたとか、本能寺の変の黒幕ではないかとか。証拠となる文書や書き付けなどの記録があれば、その時点で検証すればいいことですね。もちろん、可能性は否定するものではありません。
二十二代目当主としての義務的な行事は何もありません。伝統的な習慣やしきたりは、むしろ大名家ではなく茶道や華道の家、あるいは何百年も続いている商売の家などにはあるものなのでしょう。徳川というのは大名で、大名という身分は江戸時代で終っています。明治以降はどこの大名家でもそれぞれ普通に世の中の仕事をして暮らしています。私の父は銀行に勤めていたし、御宗家のご当主は運送関係…といったように。遺していくべきものというのは、江戸時代までの社会の中で大名がどんな役割を果していたのかということ、過去のことを過去のこととして伝えていくことだろうと思います。
義崇さんは尾張徳川家二十二代だから美術館を継がれたのですか。徳川美術館の本館と南収蔵庫の建物は帝冠様式のデザインとなっていますが何故でしょうか。(愛知県立旭丘高等学校2年/富士皓世)
徳川美術館は個人経営ではなく、財団法人として理事や役員の人たちがいる組織です。財団で会長、美術館で館長を務めるためには役員会・理事会の承認を受けなくてはなりません。二十二代目だから自動的に会長・館長になったということではないのです。
徳川美術館本館のデザインは公募…いわゆるコンペでした。日本の得意な建築は木造ですが、美術館ですからやはり頑丈な鉄筋コンクリートで造ることが前提に。しかし日本の伝統的美術品を入れる美術館にはやはり和風の面影があるようなデザインにしたいと考えて帝冠様式になったのでしょう。
尾張徳川家の末裔でよかったと思われる時はありますか。美術館の所蔵品で『源氏物語絵巻』は、いつどのような経緯で尾張徳川家に伝わったのでしょうか。(愛知県立旭丘高等学校2年/松久千紘)
よかったと思うこともあれば、損だなと思うこともあります。いいことは、まず初めて会った人に一度で名前を覚えてもらえること。逆に徳川家の末裔とか関係なく一人の人間として接して欲しい時に、余計な気を遣われると有難迷惑だったりします。友だちは私のことを「殿」と呼んだりしますが、それは愛称のようなもの。変な気の遣い方はしませんが、考え方とかものの見方が彼らと違っても、徳川ゆえのものとして認めてくれます。気遣いや心配りはとても嬉しく感じます。
『源氏物語絵巻』は尾張徳川家初代の時には既にあったという記録が遺っていますが、伝わった経緯は残念ながらわかっていません。
尾張徳川家には埋蔵金があると聞きますが本当ですか。美術館ができるまでの間、所蔵品はどうやって保存されていたのでしょう。戦時中はどう守られたのですか。失われたものもあったのですか。(滝高等学校2年/山崎響)
埋蔵金はあるかないかわかりませんが可能性は低いと思いますね。瀬戸定光寺の「源敬公廟」は初代義直公のお墓ですが、「お家の一大事の時にはこの墓石をどけてみろ」という言い伝えがあります。ただ、墓石を実際にどけてみたら「もっと頑張れ」みたいな手紙が出てくるのじゃないかな。
先ほど稲垣さんの質問にあった当主としての役割について、少し補足します。徳川の名を継ぐものとして、その時代を背景に自分がやりたいと思った仕事を全うしていくことが今日の末裔に求められていると思います。今の時代の中で社会の役に立ったと思えるようなことをやりたい…そういう意味では美術館も歴史を伝えることで、世に対して役に立てるかなと思います。
所蔵品は江戸時代には名古屋城の中にありましたが、その後は個人で管理しました。この敷地にかつて大曽根の別邸という屋敷があり、その屋敷と収蔵庫で管理していました。大曽根の別邸は戦時中に名古屋空襲で残念ながら焼けてしまいましたが、収蔵品はあらかじめ疎開させていたようです。疎開先は諏訪湖の方だと聞きました。名古屋空襲で落とされたのは爆弾ではなく焼夷弾だったので、美術館は幸い燃えずに済み、何も失われませんでした。
徳川美術館の所蔵品の中で特に思い入れの強いもの、特に観て欲しいものはありますか。また美術品展示の苦労や気を付けていることを教えてください。(金城学院大学文学部日本語日本文化学科/山下祐輝)
徳川美術館に遺っているものは美術品ばかりじゃありません。たとえば徳川家康の遺品というのは彼が使っていたとか持っていたとか、着ていた衣類、褌、足袋に至るまで遺っています。家康は亡くなって「東照大権現」神様になります。そうなると美術品に限らず何もかもが有難いものになってしまうわけです。一品一品ではなく収蔵品の総合的な価値です。家康が駿府城で亡くなった時に所持していた松明が尾張の家に遺されました。こういうものがちゃんと大名道具として遺っているというのが、徳川美術館のひとつの自慢じゃないかと思います。
展示品は普段は箱に入れて蔵の中。展示する時は蔵から出して飾るのですが、落として壊れるのを防ぐため床に置き、座って作業をします。作業する人にとっては大変です。湿度とか温度も展示品管理にとっては大切な要素。徳川美術館は基本的に湿度は管理していますが、温度は自然の流れに委せています。蔵から出した時に急激な温度変化は展示品にダメージを与えてしまいますので、出す時は一旦蔵前という部屋で一日置き、それから外に出します。展示品を入れてある箱は二重三重の箱で、外側の温度が一番内側の中の部分にゆっくりと伝わるよう加減するのです。でも蔵の中で作業する学芸員にはきつい環境ですよ。
徳川美術館は地域社会にとってどのような存在で、またどうあるべきだとお考えでしょうか。東京オリンピックに向けた取り組みなどもありましたらお聞かせください。(中央大学法学部法律学科3年/桒山侑也)
まず、地域社会の人たちにとって、地域の自慢は徳川美術館だよねって言ってもらえるような存在でありたいと思っています。そのためには、徳川美術館ならではの展示をしっかりとやっていくことでしょう。「名古屋へ友だちが来たら徳川美術館には必ず案内するのよ」と言ってくださる方がいたりして、本当に有難いことだと思います。まわりの応援の声に応えられる美術館であるために、これからも大名家に遺された大名道具というものを後世にただ遺し伝えるだけでなく、その人たちが暮らしていた時代背景なども説明できるようにしなくてはいけません。説明も記録史料から読み解いた新たな発見を順次加えつつ、常に新しい魅力を織り込みながら伝えていきたいと考えています。それが徳川美術館の使命だと感じています。
東京オリンピックに向けて…というより名古屋の魅力を日常的に全国にも海外にも発信していきたいですね。名古屋は魅力が乏しいと言われるけれども、そうじゃなくて活かしてないだけだと思うのですよ。いろんなところがタイアップ、相互協力して観光地・名古屋を創っていけるといいなと思います。その魅力のひとつとして、徳川美術館を位置づけて欲しいものです。
Interviewer
柴田 和琳 中京大学附属中京高等学校2年
溝口 瑛士 名古屋大学教育学部附属高等学校2年
稲垣 智華 名古屋大学教育学部附属中学校3年
富士 皓世 愛知県立旭丘高等学校2年
松久 千紘 愛知県立旭丘高等学校2年
山崎 響 滝高等学校2年
山下 祐輝 金城学院大学3年
桒山 侑也 中央大学3年
徳川美術館
THE TOKUGAWA ART MUSEUM
名古屋市東区徳川町1017
TEL:052-935-6262
https://www.tokugawa-art-museum.jp
開館時間:10:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
観覧料:一般1400円、高大生700円、小中生500円(※展示により異なる)
※団体割引等有り
※土曜日は小中高生無料
デザインレイアウト/スタジオゴブリン
ライティング/宮崎ゆかり
フォト/ミゾグチジュン